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ニュースの読み方・社会の見方⑥
「安田純平さんのジャーナリスト魂にどう向き合いますか」

 2018年11月30日

 
安田純平さん解放の新聞記事


シリアで3年間人質として拘束されていた戦場ジャーナリストの安田純平さんが無事に解放されたニュースを覚えていますか。安田さんはなぜ、生命の危険を冒してまで戦闘が行われている地域に入ったのでしょうか。私たちは戦場ジャーナリストの行動をどのように受けとるべきでしょうか。

以前にも人質解放の際に起きた現象ですが、安田さんに対して「日本政府が渡航を禁止している地域に勝手に入った」として「自己責任だ」「日本政府に謝れ」などというバッシングの言葉がSNSを中心に投げかけられました。いわゆる“自己責任論”というもので、人質にされたのは自業自得で、身勝手な行動だというのです。果たしてそうでしょうか。

安田さんは記者会見で日本政府に対する謝罪を述べたあと「紛争地のような場所に行く場合は自己責任であると当然、思っています」と言いました。「政府が退避勧告している場所に、あえて向かうのであれば、何かあれば全部自分で引き受ける体制の準備、心の準備をしなければならない。そこで起こったことはすべて自業自得だと考えています」とも。

国際NGO「国境なき記者団」はこれらの動きに対して、「命のリスクを負ってシリアの悲劇について同胞に伝えようとしていた安田純平氏が謝罪を強いられたことは受け入れられない。安田氏は困難を耐えたことに対して英雄として歓迎されるべきだ」という声明を出しました。

また、アメリカ人ジャーナリストは「戦地や紛争地に赴き、中立な立場から報道する戦場ジャーナリストは民主主義社会にとって不可欠な存在です。たとえば、ベトナム戦争を終結させたのも、戦場ジャーナリストたちが、無垢な人々が凄惨な目に遭っていることを世界に発信し、反戦の世論が起きたからです」と述べています。

海外では、命をかけて紛争地の現状を報道する戦場ジャーナリストに敬いこそすれ非難するようなことはなく、日本で起きたバッシングを不思議がっているそうです。

バッシングに対する日本人ジャーナリストの反論も見られます。ある人は「行くなと言われても行くジャーナリストを不快に感じて、体はって得た情報や成果も興味をもってもらえないのであれば、ジャーナリズムは死ぬしかない」と嘆きました。「安田さんは困難な取材を積み重ねることによって、日本社会や国際社会に一つの判断材料を提供してきた」「お上の判断に従って、取材しないというのはジャーナリズムではない」という声も聞かれました。

私はこう思います。安田さんが言う“自己責任”“自業自得”の言葉はバッシングで発せられた同じ言葉と意味が違います。ジャーナリスト本人は可能な限り身の安全を図りますが、生命の危険があることも覚悟しています。その行動が民主主義のため、国民の知る権利のためだからといって甘えているわけではありません。他人にどんな迷惑をかけてもいいとは思っていないこと、またその責任を他人に転嫁しないことを安田さんは宣言しているのだと思います。

それに対し、その恩恵を受ける私たちが“自己責任”“自業自得”という言葉を使ってジャーナリストの身勝手さを非難するのはどうなんでしょうか。

民主主義とは「国のあり方を決める権利は国民にある」とする政治体制のことです。民主主義国家では、国民の政治的な自由、表現の自由、言論の自由が大切なものであり、知る権利が保障されてこそ国民が自分たちの意見を持つことができるのです。私は、私たちの真実を知る権利のために勇気を持って取材している戦場ジャーナリストに感謝し、敬意を払うべきだと思います。